悪賢い人は勉強を軽蔑し
単純な人は勉強を称賛し
賢い人は勉強を利用する。
/ フランシス・ベーコン
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「ヨコオさんのことが好きです。ブログ冒頭の言葉やインタビューズの画像に載っている本、タメになる本が多いなと思っているのですが、どのようにして見つけていらっしゃるのでしょうか。また、それらの本は読んでいらっしゃるのでしょうか?」
http://theinterviews.jp/yokotaro/1950528
って質問があって。いや、最初の「好きです」ネタは
座右の銘など、あなたの好きな言葉はありますか?
http://theinterviews.jp/yokotaro/769586
この質問キッカケなんですが。
それはさておき、上の回答にも書いたように僕はあんまり本(活字)を読みません。多くて月に1~2冊くらいですかね。映画もあんまり観ません。少ない年は年に1本とかだった気がします。
まあ僕はグータラですから。
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そんな怠けモノの自分もふと思った訳です。いい年したオッサンが「本読まない」「映画観ない」とか言って、言い切っていいんだろうか?ゲーム業界を目指している若い人も読んでるかもしれないのに……っていうかどこかに罪悪感でもあるのか?自分は。
ということで今日は「沢山コンテンツを消費した方が良いのか?」という問題を考えてみたりします。
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僕が本や映画をあんまり観なくなったのは二つの原因があります。
一つは大学時代の講師が「一日一冊本を読む人が居る。そのくらいにならなきゃダメだ」と言ってた事です。
問題は、その講師自身の話が魅力的じゃ無かった事。つまんない話をする人の主張を受け入れる人ってあまり居ないんじゃないですか?少なくとも僕はそうでした。
思うに「知識をため込む事が正義」みたいな人は往々にしてコミュ力や自己発想力を軽視する傾向があって、話していてつまらない(を通り超えてイヤミな感じである)事が多いように思います。さらに「何でもシニカルに扱えばカッコイイ」みたいな部分も相まって、どうしても人間的な魅力に欠けるように感じられてしまったんですよね。
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もう一つは映画。
学生時代に1年だけイギリスに留学していたんですが、街の映画館がキレイで安かったんですよね。500円くらい。で、毎週違う映画を上映してくれる。
まあ学生なので貧乏だしヒマだしで手当たり次第に見に行く訳ですよ。
そうするとですね、だんだん映画を見てる事にマヒしてきて面白く無くなってくるわけです。もう構造を解析したりして、映画評論家みたいな事を考え始めたりする。
「感性がすり減る」って思ったんですね。そういう恐怖を味わった訳です。当時の僕は。
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それに気付いてから、意図的にエンターテインメントに触れる量を減らすようになりました。映画に行く時はどうしても気になる本や映画以外と、人に誘われる(チケットをもらう)時くらいです。つまり、なるべく一般的な感性を維持しようと。
僕にとって必要なのは、感性を先鋭化させる事じゃなくて、一般的な感性です。なぜなら、平凡でいいから、多くの人がワーッと言うような何かを生み出したいと思っているからで。その為には相手と同じ風景を見る必要がある、そう思っていました(し、今でも一部はそう思っています)。
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しかし、これは大きな危険があります。
実際に無知が武器になるケースというのは本当に希です。
「自分は普通な事をやっているから一般的な感性を持っている」のは正しいのですが、全体を俯瞰するには「特殊な感性の限界がどこか?」が判らないとダメなんです。
皆さんの周りで「俺は普通な感性だから一般人のキモチは判るよ」と言ってる人は居ませんか?そうした盲目的な愚かさはどこからやってくるのか?
そうなんです。無知それ自体は罪ではありませんが、無知は愚かさを生み出す事が多い。
これも悩ましい問題です。
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ついでなので、昔からなんなく思っていた事を書きます。
人は無限に知識を蓄積出来ない。限界があります。
ウナギの串打ちを10年やった職人さん。その10年は他に何か覚えられたかもしれない年月です。「何かを覚える時間」というのは「何かを覚えられない時間」でもあるわけです。
無駄に生きている人なんて居ません。何かを感じ、蓄積しているわけです。
20年ゲームを作り続けた僕と、20年違う仕事をしていた人の経験、その内容に違いはあれど、量は「同じ」だと考えるのが妥当です。その知識を使用する状況によって優劣は生じると思いますが、基本的な量は同じです。
同じ時間で、本を10冊読むのも、1冊を10回読むのも、一冊も読まないのも、全て等しい量の経験です。※「知らない事」も貴重な経験です。
ポイントはそれをどう使うか?という事で。
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たとえば飲み会の場。延々と難しい本のタイトルとか、みんなの知らない映画のタイトルを引き合いに出す人居るじゃないですか。後輩達はハイハイ言ってるけど、実際はお愛想で頷いているだけっていう。そこには(他人の感性を計れない)盲目さが存在する訳です。
逆に、知らない人っていうのは何か新しいアイデアを見つけた時に「うおー俺天才」とか思ったりしますが、それはもうどこかで使われているアイデアだったりして無駄な悦びだったと。
知ってる人にはその(他人の知識を計れない)愚かさが見えると。
両方のケースで言えるんですが、知識の有無はあまり重要ではなくて、どっちかというとその知識の有る事(無い事)を自覚する事が重要なんじゃないだろうか?と思う訳ですね。
「自分は知ってる」と
「相手も知ってる」と思いがちです。
「自分は知らない」と
「相手も知らない」と思いがちです。
その思い込みのリンクをぶった切って、自分の感性と相手の感性の距離を測る力、相手を想像する力、自分の感性を疑う力、そういうモノが重要なんじゃないかなーと最近僕は思っております。ハイ。
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と、無職のグータラがこれまで本を読む事をサボッてきたことを肯定する為の文章を書いてみました。
皆様におかれましてはご自由にお好きなだけ本なり映画なり読まれる事がよろしいかと思います。
それでは。
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2011年11月16日水曜日
【日記】本を読まない。
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